#101 誰だって痛いおもいはしたくない。


私は歯医者です。父が歯医者で、兄が歯医者で、叔母が技工士で、従姉妹が衛生士をしています。
そして、先日甥が歯科大学に入学いたしました。要は、我が家は歯医者が家業で生業なのです。
世間一般では珍しい言われますが、家業を身内で固めるなど、どこの業種でもやっています。
それに、歯科業界ではそれほど珍しい話ではありません。

そういう事情なので、子供の頃から歯医者になると宣言して、歯医者になりました。
ですが、なってから心の底から後悔しました。
私は患者さんの歯を削るのが怖いのです。
正確に言うと、患者さんの歯を削って苦痛を与えてしまうのが怖いのです。

色んな考え方があると思いますが、医者というものは患者さんの苦痛を取り除くことが仕事の一つのははずです。
ですが、歯医者は患者さんに苦痛を与えることが、当然だと思われています。

巷で聞く冗談で『人に苦痛を与えてお金を貰えるのは、歯医者とSMクラブの女王様だけだ』というのがあります。
そして、世間一般では、歯医者はサディストの巣窟だと思われております。

『そんなわけがないでしょう』と声を大にして主張します。

こう主張すると、何故かこういう反論が返ってきます。

『それでは、マゾヒストなのですか?』と。

世の中には、嗜好が両極端な人しか存在しないわけではありませんと再反論します。
更に言うのなら、私が否定したいのは『歯医者が苦痛を与えることを是』としていることであり、決して個人の性癖のことではありません。

……念のため書いておきますが、私はサディストでもマゾヒストでもありません。

それでは、何故、歯医者は患者さんに苦痛を与えることを改善しないのかと言いますと、実は虫歯の痛みについては、客観的な研究が不可能だからです。

現代の科学というものは、客観性と再現性を重視しています。
逆を言うとこの二つを確立できないものは、研究の対象にならないのです。

まず虫歯の痛みの大きさを客観的に計測方法がありません。
特殊な脳波計測機でもあれば可能なのかもしれませんが、体温計のように簡便に測れる道具でなければ、実用性がありません。特定の条件下でしかつかえないとなると、研究すら困難だからです。
そして、虫歯の痛みを再現する方法もありません。

計測方法は兎も角、再現方法はなくはないのですが、虫歯の痛みを再現してしまった瞬間に、実験ではなく拷問になってしまいます。しかも客観的な計測方法が存在しないため、動物実験も不可能です。強行すると、動物虐待そのものになります。

なお、虫歯の痛みは人間が感じる痛みの中で、2番目に痛いと言われております。
1番の痛みは、すい臓がんの痛みという話です。
どうやって比較したのかは判りませんが、比較経験したことがない幸運に感謝しております。

となると、痛みに関する研究は、痛みを0にするか否かの2原論しか成り立ちません。

このため、虫歯の痛みに関しては、『どうして虫歯が痛いのか』ではなく、『どうすれば治療の際に虫歯の痛みを止められるか』が研究のポイントになっていきます。
後は、痛みの仕組ではなく、どうすれば痛みを少なく出来るかという技術の開発にしかなりません。

そしてその回答は、とっくに出ています。麻酔薬です。

西洋を起源とした近代医療では、麻酔薬の研究を一番熱心だったのが歯科でした。
実際、最初の麻酔である笑気ガスを治療に用いのは、歯科でした。
そして現在ではピンポイントで麻酔を効かす局所麻酔剤は、歯科で日常的に臨床使用されております。

なお、江戸時代に片岡青洲が開発した全身麻酔は、これらの開発に先んじていましたが、当時の日本が鎖国していたため、世界レベルではあまり知られておりません。

そして、ここで歯科で『痛み』の研究が終わってしまったのです。

厳密に言うと『歯の痛み』の研究は存在しますが、それは『虫歯の痛み』ではなく『虫歯も歯周病も無いのに何故か歯が痛い』状態の研究です。『非歯原性疼痛』と分類されるもので、『虫歯の痛み』とは別種のものとされています。

ともあれ、局所麻酔剤の開発と普及によって、虫歯の痛みの研究は必要が無くなりました。
ですが、麻酔で止められる痛みには、上限があります。

麻酔というものは、痛みを0にするわけではありません。
痛みの信号が脳に届くのを止めて、痛みを感じさせなくなるだけです。

つまり、痛みがある一定限界を超え、麻酔が止められる信号の量を超えると、痛みを止めることが出来なくなるのです。

痛みというのは危険信号ですから、それを止めるのは弊害があるのです。
一時的とはいえ、その信号を止める麻酔薬というものは、危険な薬です。
麻酔薬はモノによっては、麻薬に分類されるものも含まれています。
そんなものを大量に投与すると副作用が怖いです。

言い換えると、麻酔を安全に打てる量には限界があり、その限界を超えてしまうと、危険なのです。
それは歯科用の局所麻酔剤でも基本は一緒です。

つまり麻酔の効果には限界があり、麻酔を打っても痛みが止まらないケースが発生することがあるのです。

そういう場合はどうするかというと、治療を中止して痛み止めを飲んでもらうか、そのまま強行して地獄の釜がひらくかの2択になります。なお、痛み止めを飲んだ場合は、苦痛が数日続くことがほぼ確定なので、こちらも地獄の窯がひらくことは間違いありません。

多くの場合、歯医者が治療を強行するのは、地獄の期間を短くするためです。

よく世間で歯医者で痛い目にあう話は、こういう気の毒なケースで地獄行きを強行した場合です。

このケースの一番恐ろしい点は、麻酔を打たない限り、地獄の釜が開くかどうか判らない点です。

実際に治療してきた経験から言いますと、歯が痛いと言ってきた人の10人の1人ぐらいの割合で、麻酔が効きにくいという人が出てきます。その場合は、大概麻酔の量が足りないので、麻酔を追加すれか麻酔の打ち方を工夫すれば、痛みはおさまります。ですが、そのうち10人に1人ぐらいの割合で、量を増やしても痛みが止まらないという人が出てきます。それどころか、麻酔を打つと逆に、痛みが酷くなるケースがあるのです。

つまり、歯が痛いと言って歯医者に来る患者さんの100人に1人の割合で、地獄の釜の蓋を開く人がいるのです。世間一般で歯医者で痛い思いをするという患者さんの話は、このケースです。具体的に言うと、親知らずが痛い時に親知らずを無理やり抜く場合に、起こることが多いです。

私はそれがとても怖いです。

とても怖いことに、事前の検査で、誰がその100人に1人なのか、見分ける方法がありません。
レントゲン写真に写る虫歯の大きさから予測できる場合もありますが、虫歯が大きければ麻酔が効かないという訳でもないんです。

酷いケースだと、患者さん本人に痛みの症状がなく、虫歯が小さくても、麻酔を打った瞬間に激痛で悶えた患者さんを治療したことがあります。

地獄の苦痛を味わう患者さんも気の毒ですが、気がついたら地獄の極卒をやらされている歯医者の神経もたまったものではありません。実際治療するにしても、患者さんの痛みがあるとないでは、治療の難易度が違います。当然、痛いほうが治療が難しいです。

歯が痛いから歯医者に行くのに、そこで痛い思いをするのは、理不尽だと思いませんか?

もっとも、麻酔が発明される以前は、100%の人が地獄を見ていたのです。
その意味では、1%になっただけ歯医者が努力したのだと強弁できます。
しかし、痛い目にあっている患者さんから見れば同意できるはずがありません。
1%まで減らせたのだから、もっと頑張れというのが本音でしょう。

患者さんは苦痛から開放されたくて、歯医者へ行くのです。そこが地獄だと思っていません。
私の仕事場は歯医者であって、地獄の極卒ではありません。

それなので、地獄の釜の蓋を開かない方法を研究することにしました。
より具体的には虫歯が痛くなる仕組と歯を削らないで虫歯の痛みを和らげる方法です。
ただまだ完璧ではありません。
地獄を見る1%の確率を0.1%にすることが出来るようになったぐらいです。

1/10にできたと誇るべきか、0に出来なかったと恥じるべきか、判断がつきません。

ここ10年ほどかかりましたが、その研究が一段落し、人様にお話できるようになりました。

少し長い話になりますが、お付き合いしていただけると嬉しく思います。


 <コラムのページに戻る> <次のコラムへ>